怒るということはどういうことなのか
どうも。
今日はちょっとまじめっぽい話。
先日街を歩いていると、怒っている人を見ました。
僕が見ていた感じだと、ただ人と肩がぶつかっただけのようでしたが、
そこまで怒るかな、というまでの怒りっぷりでした。
そばにいた外国の方が苦笑いしていたのが、印象に残っています。
僕の個人的な考えでは、怒るということは、つまり、
自分を見失うこと、自分自身が自分自身ではなくなり、なにかに支配されてしまうことであると考えています。
僕が街でみかけた、怒っている人の話を整理すると、
街を歩いている→人と肩がぶつかる→怒りがこみあげてくる→どなってしまう
こうして、整理してみると、たしかに矢印ではつながっているものの
肩がぶつかってしまったことと、怒りがこみ上げそれを表現してしまったことのあいだ
には別のことがらとして、明確な区別があるわけです。
つまり、人と肩がぶつかってしまった、という中立な出来事があったとしても、
その出来事を起点として生じる、感情や行動は僕らの解釈次第だというわけです。
ここで問題になるのは、人と肩がぶつかる、という出来事を
どう受け取り、処理するかということです。
なにごともなく受け流すことができる人もいれば、どうしてもその出来事に固執し
それから離れることができなくなってしまう人もいるでしょう。
しかし、どう考えても、後者より前者の方が、
生きていくうえで、適切な言い方かは分かりませんが得であると思います。
長い人生、生きていれば、毎日それはそれは大波のように
さまざまな物事、出来事が僕たちに押し寄せます。
間違いなく、そのなかには、腹が立ってしまうようなこともあると思います。
それでも、外の世界で起こることばかりに固執して、感情を揺さぶられていては
ほんとうの自分を生きられないと思うんです。
本来どうでもいいことに振り回されて、貴重な自分の感情を使うべきではないと
思います。
少し言い方が悪いように思いますが、感情の安売りは、中身のない、
外の世界にいちいち左右される、欲望的で、単細胞的な行為であると思います。
それに、なんか毎日笑って楽しく生きたいじゃないですか。
もちろん、喜怒哀楽は必要なもので、悪いものではないと思います。
それでも、こころからの僕自身を生きるためには、
なんというか俯瞰的というか、逆にもっと自分自身にフォーカスするというか
が必要なんじゃないかなと思います。
なに言ってるかわかんなくなってきました。笑
でも、なんというか、人類の進歩は内面の変化なしに
これ以上望めないのではないでしょうか。
それでは。